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by ninpu_ninjya

三番目の待機物語

■待ってると期待するものがきた、というのが素朴で原初的な物語型だとすると、待ってても何もこないというのが変化球で『ゴド―を待ちながら』などその代名詞的作品があるとしたら、待った結果待ちに待ったものがくるんだけどじぶんはそれに関われない、という発展形があって、このタイプの物語に、ぼくは長らくよくわからないと感じてきたけど、さいきん妙にしんみりと、なかなか味わい深いな、と思うようになってきたのは、歳のせいなのか、ヤバいな。ぼくの人生も、結局のところ、何もこないならまだしも、たしかにくるんだけどそれに関われない類なんだなと、ようやくわかってきたということかもしれない。■最初に三番目の待機物語に出会ったのは、ロナルド・ハーウッドの戯曲『ドレッサー』じゃないかと思う。あの戯曲、というか見たのは上演された演劇だったけど、最初に見たときは、率直にいって、(結末について)何がおもしろいのかさっぱりわからなかった。世の中的には「名作」扱いだし、それだけに、のどに刺さった魚の小骨のように(なんて使い古された修飾を使ってしまうね)ずっと引っかかっていたと思うのは、強烈な疑問や違和感って、ことあるごとに思いだすからだよね。シェイクスピア俳優とその付き人の物語で、ハーウッドの脚本で映画にもなってるから、わりあい知っているひとも多いんじゃないかと思うが、ぼくは映画のほうを見ていない。ぼくが見たのは2005年パルコ劇場で平幹二朗と西村雅彦が出演してたやつ。ネットの情報をあさると、演出は鈴木勝秀、翻訳は松岡和子だったようだ。さかのぼれば、どちらも松竹の制作、ロナルド・エアー演出で、1988年三國連太郎と加藤健一、1989年三國連太郎と柄本明で上演されてるし、2013年にはシス・カンパニー制作、三谷幸喜演出、橋爪功と大泉洋で上演されてる(のは知らなかった)。バックステージ物だし長らく演劇をやっているひとからすると「読める」ので、業界内評価が高く、ことあるごとに演劇人の記憶にのぼってきて、上演が繰りかえされている、ということなのだろう。■付き人ノーマンが死にかけの座長を励まして「リア王」上演の舞台裏をささえるんだけど、最後に手紙のくだりがあるでしょ、あそこね、あの外し方。ノーマンの心境をいかようにも感情付与することはできると思うんだけど、鈴木勝秀の演出ではそれまでのドタバタ具合の自然な結果として、観客の共感できる感情に落としこまずに、突き放した心境、あえてカテゴライズすれば驚きだけがあるような空虚と混乱として提示していたと記憶してる。それだけに後味悪かったわけだけど、演出しがいのあるオチではあるよね。いまとなってはノーマン役の西村雅彦の精神病的な剥奪としての驚きものみこめる気がする。客の受けを狙うなら、感傷の混じった切なさに落としこめばはなしは早いだろう。けど、そうしていないのが、おそらくあの演出の妙だったんだろう、とも思う。だって座長が平幹二朗だからさ。狂っていくのも新劇的なリアリズムというより、リアリズムと商業演劇的な朗誦のせめぎあいのなかで感情的に展開するわけで、文字通り向こう見ずな暴走になるので、ノーマンの妄想のなかだけでもリアリズム的に座長と心を通わせる、なんて選択肢はなかったと思うんだよ。切なさなんて出てきようがない。■と思いだしつつ、書きたかったのはディーノ・ブッツァーティの小説『タタール人の砂漠』のことなのだった。2013年に脇功訳が岩波文庫に入ってる(1992年松籟社より刊行された訳本の改稿)。ブッツァーティはカルヴィーノやランドルフィにならぶイタリア幻想文学の雄ということになってるのかな、『タタール人の砂漠』はもとは1940年に書かれた小説だけど、文庫の「訳者解説」によると、刊行の翌日にイタリアが第二次大戦に参加し、戦後1950年代から60年代にかけてネオ・リアリズムの流行がひと段落するまで、再評価の機運はおとずれなかったらしい。同じくブッツァーティの短編集『世紀の地獄めぐり』(香川真澄訳、創林舎、2016年)の訳者あとがきによると、寓意作家ではあるけれど、晩年に進むにしたがって実人生の影が小説をむしばみはじめ、やがて虚構を食い破るまでにいたるとのことだ。『タタール人の砂漠』は初期の作品だけあって、ここでいうところの三番目の待機物語の典型といっていいほど、きれいに物語が構築されている。これが寓話かどうかというのは判断できないけど、寓意はある、アレゴリーというカテゴリーで語られる小説である、とはいえる。物語は、軍人ジョヴァンニ・ドローゴの一生。人生の愉しみからは隔絶された、目前の広大な「タタール人の砂漠」を眺めるばかりの、敵のやってこないへんぴな砦に配属されたドローゴが、軍人として、戦を、勇敢な死の機会を待ちつづける、という趣向。さすがにここまで簡潔に、かつ丁寧に物語を構築されると、苦手な三番目の待機物語といえども、その味わいをしっかり受けとめざるをえなかった。■19世紀がリアリズムの時代だとすれば20世紀はアレゴリーの時代で、探しだすとカフカをはじめ大文字の寓意作家たちの作のなかに三番目の待機物語はほかにもあるのではないかと思う。21世紀はさらにさきに行かなければいけないんだけど、これが難しいね。想像と現実の関係のなかで文体は変化すると思うんだけど、リアリズムは物語の論理が現実を縫いあげるのに対して、アレゴリーは想像を縫いあげるのだけど、三番目の待機物語は物語からこぼれてしまう存在に照明を当てることでアレゴリーを成立させているので、このさきというのは物語の届かない暗闇ということになってしまって、アレゴリーは機能しないばかりかリアリズムも全体を構築できない荒地かもしれない。吃音的にぶつぎれの断片を配置するほかに何かしようとすれば、回帰的にならざるをえず、じぶんとしても楽しめるものとして創作するなら、リアリズムでもアレゴリーでも言葉が現実にあたるところを設計しさえすれば、気分としては居直ってもいいんだけど、書いてるうちに新しいところにでる、というふうには行為に期待しておかないと、書きつづけられない。行為よりさきに思考できればいいんだけど、ぼくにはどうもできないし。■三番目の待機物語がとりあえずいまのところ共同性をつくれる「最後の寓話」なんじゃないかとふと思って、メモメモ。■幻想文学というとあまりに漠然としているけど、単に現実ではありえない道具立てで世界を構築するという、それだけならば、ファンタジーと呼ばれる作品群に属し、想像と現実との相関関係を問わなくてもよくなるわけだけど、そうではなく、虚構を通して想像と現実との関係を問いなおしてしまうのが文学(小説といったほうがいいのかな)ならば、その範囲での幻想文学は、認知限界の外側を意図的に幻想にわりふるものと、寓意の仕掛けとして幻想を利用するものとあるよね。どちらも有効に使えば使えるけれど、ぼくとしてはさいきん、前者は禁じ手にしよう、と思っている。気質的にやっちゃうんだけど、無自覚すぎた、それはない、と反省した。後者はまだ使える気がするけど、三番目の待機物語のさきとして考えたいんよね。


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# by ninpu_ninjya | 2017-01-22 00:21 | 仕事 | Trackback | Comments(0)

■デヴィッド・リンチとマーク・フロストの『ツイン・ピークス』続編が今年20175月から放映されるようですね。ネット配信時代だし、もはや「テレビドラマ」というのは適切でないから、単に「映像作品」とでもいえばいいんだろうか、日本で見られるのはいつになるかわからないけど、楽しみだなあ。■1990年から1991年にかけて放映されたテレビシリーズの最終話、深紅のカーテンに包まれた異空間ブラックロッジの内部で、物語の発端になった被害者ローラ・パーマーがクーパーFBI捜査官に「25年後にまた会いましょう」っていって、2016年でちょうどそれだけの時間が経過したんだよね。前々から続編の噂はあったはずだけど、今度のは本当らしいので、時機を得たということで。オリジナルキャストが再集合するようで、むろんみんな歳をとってて、ネットに転がってる告知動画を見るだけでも感慨深いわ。■もちろんぼくはリアルタイムでは見てなくて、21世紀に入ってからの後追い組ですけどね。錯綜した諸要素を、夢判断や超現実によって裏づけていく、オカルト趣味の物語は、いっけん陳腐に感じられかねないんだけど、いま見返してもなかなか鮮烈なのよね。とくにローラー・パーマー事件がひと段落するまで(wikiによるとセカンドシーズンの第9話まで)の謎解きは、観念としての殺人者ボブを平行世界的に実在化させて、「見させる」演出になってたよね。セカンドシーズンの第10話以降は、まだ続くのか、と見る者を置いていくかに思わせながらも、次第に、『ツイン・ピークス』が「初めから」クーパー捜査官の物語「だったのだ」と焦点をあわせなおし、ローラ・パーマー事件はクーパーの物語の内部で「起こった」にすぎない、と物語内時間の遠近感を狂わせていく。テレビシリーズを最後まで見ても、謎は残されたままで、ファンであればあるほどさぞかしモヤモヤしただろうと思うけど、ガチで25年経って、やっと続編が見られるってわけだ。リンチ自身の手で続編がつくられるというのもいいよね。■個人的に気になってるのは、物語の核心部分がオカルトなんで、1990年と現在では同じようにつくるわけにはいかないんじゃないかと思うわけね。ホワイトロッジとブラックロッジの関係は、いってしまえば善悪の表象で、ブラックロッジに迷いこんだ人間は悪に目覚めてしまうわけだけど、こういう単純な図式をそのままオカルト風に物語世界に組みこむということが、果たして2017年にできるかどうか。哲学者メイヤスーが『有限性の後で』で書いてるように、相関主義が深まったゆえに神秘主義が擁護されるってことまで明確に指摘されてしまった21世紀初頭だからね、おいそれとオカルト趣味でなにか深いことをいったように乗りきるのは、もはや必然性への居直り以外のものではありえなくなってしまった。「クーパー捜査官のその後」を描くときに、前作の核心たるオカルト要素を抜きにはできないんだけど、オカルト要素を用いながらも、2017年の一般の視聴者の感性のうえで腑に落ちるポイントをどうつくるか。おそらくそれはホワイトロッジとブラックロッジの関係を複雑化するか、ブラックロッジの位相を深めてそれ自体別様に見せるか、あるいはオカルト要素を無化するような新しい契機を物語内に組みこんで、発端のローラ・パーマー事件をクーパーの物語内に位置づけなおしたように、さらに大きい物語の内部に包摂してしまう、といった選択肢になるんじゃないかな。まあ予想してもたいがい外れるけど、宇宙研究が進むと、「太陽の分断がはじまる!」とか、マジで対処のしようがないように感じる、人間存在を根底からゆるがす「地殻変動」がまじめに主張されるから、そのあたりとオカルト要素を結合させて、今日風に物語を仮構しなおすのもひとつの手だね。でも裏をかくのもリンチだから、そのへんをどうするのか、期待を裏切ってくれるのを楽しみにしてる。■ともあれリンチが「今の作家」かどうかイヤでも試されるよ。チャレンジャーだわ。■しかし『ツイン・ピークス』の後世への影響ははかり知れないとあらためて思った。前に記事を書いたコーエン兄弟の『ファーゴ』だって、『ツイン・ピークス』がなけりゃつくられなかったかもしれないし、日本でも松尾スズキやその弟子としての宮藤官九郎が小さな共同体のコミュニケーションに独特の悲喜劇を発見する劇作を成立させられたかわからないよね。松尾スズキにはアメリカ映画の影響あるよな、と勝手に思ってるんだけど、大人計画の旗揚げが1988年だから、少なくとも『ツイン・ピークス』のヒットが「方向性間違ってない」って確認する程度の道標にはなったかもしれないよね。トラック運転手のレオが襲撃されて身体障害で車いす生活になって、意思疎通ができなくなるんだけど、その妻シェリーと不倫関係にあったボビーが保険金目当てで共同生活をはじめるコメディタッチのくだりを見ながら、『ファンキー!』(1996)を連想したりしちゃうんだもん。奇形の表象でいえば、『ふくすけ』(1998)をひきあいにリンチ『エレファント・マン』(1980)やヘンネロッター『バスケット・ケース』(1982)を持ちだすほうがいいのかもしれないけど、野暮だわな。それ以前に、あの気弱な保安官補アンディ、その恋敵ディック、アラフォーなのに狂って女子高に入りなおすネイディーン、いつも丸太を抱えた謎のおばさん、アンディとディックのあいだで揺れていたオフィスレディなのに終盤のミスコンでいきなり華麗に踊りだすルーシー、など脇役たちの癖のあるキャラクターをどこか「大人計画っぽい」と感じてしまうのはぼくだけかな。劇団員の多くがメジャーになってるのを知ってると、90年代以降の日本演劇の最大級の重要人物としての松尾スズキについていまではなかなか語られないのが気になってくるね。『ファンキー!』も『ふくすけ』もニコ動で記録映像を見れちゃうけど、ぼくより若いひとはスルーしてる可能性もおおいにあるので、とりあえず「教養」として見ておくべきだとでもいいたくなる。■『ツイン・ピークス』から横道にそれたけど、ひとつの金字塔ということで、ここからその後の愛すべきひとつの路線がはじまった、と考えるのは誇張しすぎだろうか。リアルタイムで追ってたひとのはなしを聴きたいね。どんなふうに見てたのか。


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# by ninpu_ninjya | 2017-01-16 08:51 | 映画 | Trackback | Comments(0)

嘘つきは泥棒のはじまり

■含蓄をのみこめないことわざもあって、ぼくのばあい、そのひとつは間違いなく「嘘つきは泥棒のはじまり」だった。「豚に真珠」とか「猫に小判」とか象徴的に読むと含蓄が見えてきたりするのもあるし、いちいち象徴として読まなくても、「長い物には巻かれろ」みたいに、語感と生活実感からぼんやり受けとれば寓意が感じられる、というのもあるけど、「嘘つきは泥棒のはじまり」は、嘘つきと泥棒がどうにも結びつかない、出発点としての嘘つきと終着点としての泥棒のあいだがかけ離れすぎていて、そのあいだの理屈はどうなっているのか、さっぱりわからない。それに単に「泥棒」ではなく、「泥棒のはじまり」だし、「悪人」や「罪人」や「堕落する」というのでもなく、あくまで「泥棒」だというのも気になるじゃないか。「詐欺」や「人殺し」じゃなぜいけない。■辞書をひけば当然意味は掲載されていて、いわく「平然と嘘をつくようになると、良心が失われて、盗みをはたらいても平気なひとになるから、嘘をついてはいけない、という戒め」などと書いてある。「晴天の霹靂」のように陸游の詩がもとになっている、といった出典があるわけでもない。■そもそもことわざをリテラルに読もうとするのが間違っている、といわれそうだけど、そんな批判は的外れだ。リテラルに読むなら、嘘つきは泥棒になるから駄目だ、というほどの意味になり、ますます意味不明だが、それこそ問題なのである。リテラルに読めないことこそが。リテラルに読むからべつの意味も見えてくるのであって、その二重性にことわざの本分があるのだから、リテラルにだけ読むのでないにしても、リテラルの次元がなければことわざはそもそも成立しないだろう。「嘘つきは泥棒のはじまり」にはリテラルに読もうとする最初のところでつまづいてしまう。「豚に真珠」とか「晴天の霹靂」でそんなつまづき方はしないのに。■などと思っていたけど、「嘘つきは泥棒のはじまり」が、これというきっかけもなく、電車に乗っているとき、ふとのみこめた。■ぼくが考えたのはこういうことだ。嘘つきというのは、真偽において、偽を真と見せかける者のことである、とするならば、嘘というのは、発信者の見せかけの真について受信者が偽であると気づくことで露呈するのだから、「Aである」事象を隠して「Bである」と発語するのにとどまらず、「Bである」状況を「Aである」と認識する世界観に亀裂を走らせるものである。嘘というのは、発信者よりも受信者に優位な概念であって、受信者が嘘であると感じると、その嘘と感じられた情報を発信した発信者は「嘘つき」と認定される仕組みになっている。「2人」を「3人」と偽る、といった嘘ならば真偽は明確だが、データ化できる事実性のレベルだけでなく、やっかいなことに、ひとは解釈においても「あいつは嘘つきだ」と判断する。解釈において真偽は必ずしも明確でない。けれども、ある状況を解釈して「aさんの言動が状況を悪化させている」というbさんに対して、bさんが無用にaさんを貶めようとしていると感じるcさんはべつの状況解釈をもっており、例えばそれが「bさんは自分の非を隠すためにaさんを悪者に仕立てあげている」といったものだったりして、bさんを「嘘つき」と判断するのである。おわかりのようにこういうばあい、誰が真を告げる発信者なのか、簡単に決めるのは難しいけれど、実際には、状況にまきこまれたひとたちのあいだで、例えば「cさんの見方のほうがもっともらしいからbさんは嘘つきだ」といったかたちで、信頼できそうなひとの意見に同調することで、真偽の境界は、事実性のレベルよりも、しばしば倫理的なレベルで見定められることになる。bさん派とcさん派の状況解釈が違っており、それは認識による仮構の対立である。「Bである」状況を「Aである」と認識する世界観に亀裂を走らせる、と書いたのは、対立する認識による仮構のどちらの立場であったにせよ、相手の言い分が真である場合、みずからの認識による仮構を誤りかもしれないと、反省する契機になりうるからである。つまり、嘘つきは相手かじぶんかほんとうのところわからない。言いかえれば、じぶんが真なる存在でありたければ相手を「嘘つき」と言わなければいけないし、相手も相手で真なる存在でありたければその否定者を「嘘つき」と言わなければいけない。倫理的なレベルで問うべきは善悪であって真偽でないのだが、真偽を問いはじめるとこういった局面は避けられない。■「嘘つきは泥棒のはじまり」の嘘つきを、事実レベルでとらえるのでなく倫理レベルでとらえると、嘘つきは、あえて書けば「わたしたち」の世界認識に亀裂を走らせうる者である。「わたしたち」とはべつの世界認識をもっている者である。「わたしたち」が「Aである」と認識したこの世界を、平然と「Bである」と認識してはばからない者である。さきに嘘つきという概念は、受信者が優位な概念である、と書いておいた。倫理レベルにおいては、誰から見て誰が「嘘つき」に見えるかというのが重要で、当人が「嘘つき」と自覚しているかどうかはさほど重要でないし、倫理レベルの真偽はそもそも明確でないのだから、受信者が「嘘つき」と判断するかたちでしか、「嘘つき」がいないばあいさえある。「嘘つきは泥棒のはじまり」の含蓄を得るために、まずはリテラルに読もうとしているぼくにとって、倫理レベルでの「嘘つき」、受信者にとってまさに「嘘つき」と感じられるその局面が重要だ。というのは、この世界が「Aである」と認識している「わたしたち」にとって、「Bである」と認識する「嘘つき」は、少数派であればうっとうしいだけならまだしも扇動者でありうるし、多数派であればまず間違いなくある種の収奪者として現象するからである。「嘘つき」は「わたしたち」から何かを奪う「泥棒」かもしれない。倫理レベルで「嘘つき」に見える者が「泥棒」かもしれないなら、「わたしたち」のなかに「嘘つき」がいるのを「泥棒のはじまり」と表現するのに特段おかしなところはない。戒めとして「嘘つきは泥棒のはじまり」と身内に言い聞かせる関係性を想像すれば、妙に腑に落ちさえする。事実性のレベルで機能する真偽の問題を倫理レベルのコンテクストに移植することで、ぼくはようやくこの不可解なことわざをリテラルに読めたのだった。■その含蓄は、「嘘つき」は「わたしたち」の世界認識を収奪する「泥棒」ということなので、「泥棒のはじまり」と表現するのは、「そんなヤツになるなよ」という強い連帯感情を背景にあわせもっている。「嘘つきは泥棒のはじまり」は、ほとんど「お前は俺と違う世界を生きはじめている」という警告と考えたほうがしっくりくる。連帯感情を踏まえた憎しみをすくいとらなければ「嘘つきは泥棒のはじまり」をのみこむのは困難だったのだ。「嘘つきは泥棒のはじまりだぞ」などと本気でいわれたら、この関係は終わっている、と悟ったほうが無難である。最悪の場合、その夜、寝はじめの枕元に殺し屋が立っている可能性を考慮するのも、さっぱり無益とはいえないだろう。


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# by ninpu_ninjya | 2017-01-09 12:00 | 雑感 | Trackback | Comments(0)

■年末急にアメリカのテレビドラマづいて、あとまわしになってたFXチャンネルの『FARGO/ファーゴ』シーズン12014年)。映画版のファンだったので足踏みしてしまっていたんよね。しかし見はじめると、なんという安定感、数話見ただけでもうこれはテレビドラマのサスペンス(というべきかブラックコメディといういうべきか)としてはマスターピースだな、と感服した。いや最後まで見ると、特に最終話の演出をぼくは気に入ってないんだけど、まあこころを広くもつとしてだ、いいよ、いい、ほかにいいところがありすぎて全然。■1996年の映画版は監督のコーエン兄弟だけでなく、なんといってもフランシス・マクドーマンドに開眼させてくれたからね、それだけでも恩義がある。だってアメリカの片田舎の保守的な地域の、鄙のいびつさをかもしながら、ふしぎちゃんな夫に愛情を注ぐ女性警官で、しかも警察署長で、そのうえ妊婦でありながら、複雑で悪質な殺人事件に、良質な職業上の実力と使命感から迫っていくっていう、こみいったキャラクターの微妙な魅力を、見事に技巧的な演技で具体化していたからね。すっかりマクドーマンドファンになったわけで、あの強烈な個性にテレビドラマ版はかなわんよねって見てもないのに思っちゃうやないですか。■ところがどうだ。驚いた驚いた。逆手にとるとはこのことやね。アメリカの役者の世界でどういう実績のある女優か知らないけど、アリソン・トルマンという、少なくとも日本では無名の役者で、ひいき目に見ても「強烈な個性がある」とはいえない、それどころかどちらかといえば「無個性」な、けれども一定の演技における勘をたしかにもっているらしい、あえて特徴をあげれば小太りの主人公を、警察署の副署長というポジションに「格下げ」することによって、原作のもっている物語の可能性をおおいに高めて、見事に引きだしていたよ。この「無個性」は今日的な「映像的な俳優」の特質のひとつかもね。■「署長」から「副署長」になってるってところは、のちのちの役職の変化も含めて、非常に重要な設定なんよ。原作時の舞台は同じミネソタ州でもヘネピン郡ミネアポリスとクロウウィング郡ブレイナードだったのが、テレビドラマ版ではベルトラミー郡ベミジー、(ベンジャミン・ブリテン好きにはアメリカ活動時代に若気の至りで作曲された同名のコミックオペラでおなじみの)巨人ポール・バニヤンのふるさととされているんよね(映画版でもロードサイドに「ポール・バニヤンのふるさと!」って看板が出てたはずだけど、伝説なので近隣地域にいくつもあるのかも)。ポール・バニヤンは伝説上の巨人、アメリカ西部開拓時代のきこりで、在野の「建国者たち」を思わせる神話的な男性なんです。原住民を駆逐して国土を拓いたアメリカ的男性の男のなかの男。ベミジーという片田舎が舞台にされているのは、アメリカ的男性像のふるさとを象徴してるってわけだけど、そんな「伝統」のある地域の、自治精神の牙城であるはずの警察署長が女性で妊婦だって設定からすでに、原作にはなかなかのたくらみがあったんだけど、このジェンダー的に意欲的な意図はテレビドラマ版の「副署長」設定で、劇作上の細やかさをさらに深めていた。■というのは、眼に見える悪人はほとんどサイコパスのような殺人鬼(ビリー・ボブ・ソーントン演じるローン・マルヴォ)で、また彼に翻弄されて悪人になってゆくしがないサラリーマン(マーティン・フリーマン演じるレスター・ナイガード)なんだけど、複雑な事件展開ながらどうにか眼のまえに広がってくる真相を、見えてはいても掴めないものにしている障壁が何かということ、つまりアメリカ的な正義がアメリカの「伝統ある」片田舎で機能不全に陥っているとしたら、その原因はなんなのか、という問いに貫かれているわけさ。もっといえば「アメリカの本当の敵はどこにいるのか」。主人公を「副署長」にしたことで、事件の捜査が、いかにもまちに愛されたい、共同体を大切にする上司との意見の違いで妨害されるんだけど、そこにテレビドラマ版の独自性があって、ぜひともよく見てほしい。敵を自明な敵として描くほど単純な図式化はゆるさない演出やったよ。■それにつけても効果的なのが、台詞の節々に、ベミジーってまちが、いかに片田舎かって示唆が出てくることね。タイトルのファーゴもまちの名前で、こちらはノースダコタ州キャス郡(って読むのかな、Cass country)にある都市名。ノースダコタ州はベミジーのあるミネソタ州とはお隣の州で、ファーゴにはマフィアっぽい組織やFBIの拠点もある設定になってんだけど、ポンコツだということを差し引いてもいちおうFBIの職員でさえ「ベミジーってどこ?」って口ばしるしまつ。事件の舞台になるのはベミジーなのに、「重要」人物たちはファーゴからやってきて、作品のタイトルさえファーゴに奪われてるってわけ。■アメリカ国内の自治精神のゆらぎの解像度をあげる、という作品内論理の必然、ベミジーの警察署とFBIの関係も重要でね、ベミジーからFBIに調査協力を求めるときに「テロ対策で多忙で…」みたいな台詞で断られたり、一般性のある時代状況を感じさせるちょっとした情報だけど、うまいなと思う。アメリカをジで生きている田舎の住民たちの不安と、国家規模のリスク管理が食い違ってるってのをここは鮮明に図式化するのよ。外向きの国家に対する内向きの地方自治体の、単に外向きになれば済むとはいえない、内向きのまなざしのまさにその先に問題の核心がうごめいている微妙さに焦点を定めているのよね。複雑なまま見なければいけない作家のまなざしがどこを向いているかわかるでしょ。いやこれは見たかったものだって見たあとに思うし、そりゃ商業的にもアタルよね、と。■まだまだこのテレビドラマについては語るべきことが残されてるに違いない。イヤらしいくらいちりばめられた、ちくいち謎解きされるわけでもないたとえ話の数々、あるいは聖書の引用にしても、無用に「文学的」な効果をあげているというより、このドラマ自体が散文的でなければとらえられない現実の位相の機微にきわめて愚直に手をのばした文学的なあり方だよね、と思わされるくらいにはいいので、嫌味には感じなかったよ。フォーレのレクイエムとか流しちゃってもね、いいよ、いいいい、全然いい。脚本のノア・ホーリー、要チェックやん。■そういえばテーマ曲も田舎まちを生きるひとの悲哀を感じさせて、なかなかグッときますよ。シーズン2とシーズン3も見なきゃな。


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# by ninpu_ninjya | 2016-12-30 11:29 | 映画 | Trackback | Comments(0)

Syfyチャンネルの『HELIX』をシーズン2まで通しで見てしもうた。DVDに全然関係ないドラマの第一話だけオマケでついてたりするやないですか、それでシーズン1の第一話だけ見たらちょっとおもしろかったので、まんまとツラれて、あれよあれよとシーズン2まで、全26話。いい客やん。だってシーズン1だけ見ても解決してんのかしてないのかよくわからんような終結部やし、どうにもシーズン2に手をのばしてしまうようにできてんのよね、で見るとこれはシーズン2を見るためのシーズン1であったってくらい、後半は要素が錯綜してきて、イヤイヤそれはないでしょーってつっこむ暇を与えないくらい、めくるめくぶっ飛び具合で、はあ、言葉を失って感心した。これで着いてくる視聴者ってよっぽどだよなと思ったけど、ゲスでエグイ、理由なしのカオスに身を浸したいひとにはおすすめ。過激な暴力描写がふんだんにあるので、苦手なひとおよび分別のない子どもは絶対に見ないように。■SFでありホラーでありサスペンスであり、ただただストーリーとギミックの異常さを享受するドラマでありまして、シーズン2のラストのへんとか、そこまで省略していいのお!?って思うくらい不親切なつくりやったけど、とにかく全編にわたる制作陣の力の入れようだけは伝わってくる、トンデモSFドラマであった。シーズン3がつくられていないのがもったいないね、さすがにここまでやっちゃうとファンの数も限られるのかなと思いつつ、いかにも「つづく」的なシーズン2の終わりだったので、すでに続編が出るのを楽しみにしてしまっている。■基本はパンデミックものというか、伝染病の早期縮減を果たすために、問題が起こった現地に入って調査するアメリカ疾病予防管理センター(CDC)のメンバーの物語なんやけど、シーズン1では北極にある突然変異の研究所、シーズン2では孤島のカルト集団が舞台になってて、その気味の悪い組織のメンバーとの関係も展開するなかで、オヒョヒョ!っていう驚きの設定が明らかになっていきます、はい。ネタバレを避けたい作品なんで詳しく書かないけどね。もう「退廃芸術」以外の何ものでもないと思った。このカオスっぷりは頭痛くなるよ。最後まで見てもべつにスッキリなんかしないので、そのつもりでウワァエグゥっていいながら見るもんだと思ったほういい。■映画くらいの短い尺でありがちな社会批判とか何らかの寓意とか、あるいはメッセージみたいなものも、いっさいないので期待しないほうがいい。どれだけ陰惨な出来事が起こっても、そこに理由はないし、何者かの意思によってくりひろげられた惨状でも、そもそもの選択肢がおかしくて、どれをとっても「ありえない」結果しかないような状況だけがあるってな具合で、善人は悪人になるし、悪人も善人になるし、酷いもん見たなあって最悪の後味だけを嗜むべし、というようなドラマなんでね。ええ悪趣味ですよ。シーズン2ほど無茶苦茶になると、アメリカのケーブルテレビで放映っつっても苦情が来るんじゃないかね。しかしこの無茶苦茶は秀逸でしょう。■いろんな映画のギミックの百科事典にもなってて、どっかで見たことあるぞって感じるシーンが満載なのもおもしろいよ。データベース的な想像力でつくられたドラマでもあって、データベースが意味を織りなすというより、ひたすら構造内意味を内側からずらしていくような契機として作動している。結果的に無茶苦茶になっていくんだけど、これほど無茶苦茶にしてくれるならもういい、勝手にしてって感じで、ぼくはお手上げ状態で最後まで見た、といったほうが実感に近い。■はじまりはあっても終わりがないに等しいので、たぶん語りづらくって、あんまり話題にもなってないようだけど、見てしまうと無視できない作品になったなと。歴然と娯楽作だけど、いちおうきっちり辻褄あわせがなされていても、細部のカオスゆえに語りえないものに届いてしまっているような娯楽で、すでに娯楽作というのが適当かわからないような。■ある種のホラー映画にはそういう味わいが常にあったわけですよね。ヒッチコックみたいな大家はもとより、アルジェントとかリンチとか、日本でいえば黒沢清とか。徹底的に娯楽作であるがゆえに世界の混沌に手が届いてしまって、見る者の知覚を解消する以上に、えもいわれぬ感慨によって黙らせてしまう。暴力描写がちょいと粗雑に感じるところはあったけど、『HELIX』はそのへんでいい線いってんじゃないかと。「らせん(helix)」ってタイトルで、真田広之が重要な役で出演してんだから、Jホラーの影響もはっきりあるんやと思うよ。■シーズン1でもう見たくないと思っても重い腰をあげてシーズン2まで見るといいよ。本当に酷いから。ぼくとしてはシーズン2は評価せざるをえないな。一から十まであんまりか!ってくらいあんまりだもの。認識がかく乱されて、ヒッチコック的な「めまい」に接近できますよ。■しかしこんなテレビドラマってどうやったらつくれるんだろ。放送の前提されてるシステムが日本とはかなり違うんだろうね。世界市場で展開できるコンテンツとして最初からつくってるもん。それだけ金がかかってるわけで。ここまでやれる仕事場ってちょっと憧れるね。Syfyオタクたちには夢の世界だろうな。


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# by ninpu_ninjya | 2016-12-23 21:23 | 映画 | Trackback | Comments(0)