「エキサイト公式プラチナブロガー」スタート!

記事には賞味期限があるので独断で消去しています。ご了承ください。
by ninpu_ninjya

憤死

■『もののけ姫』でエボシが、公衆の面前で自分にふりかかった呪いについて語るアシタカに、「賢らにわずかな不運を見せびらかすな。その右腕、きりおとしてやろう」って言うんだよね。このセリフ、しびれたけど、完璧に日本の「世間様」の心理を言いあらわしていて、そういう意味でもしびれたけど、エボシは基本的に好きなのよ。世俗権力はこうじゃなきゃね、神様くらい殺してもらわないと、ってぼくは思ってしまうけど、それ自体屈折した「世間様」の心理なのね。なんまいだあって言いながら神も仏も信じちゃいないし、まれびとだからって礼をつくしながらアシタカみたいなの心底嫌悪してるんだな。■一番好きなのは乙事主だけどね。乙事主がタタリ神になって、シシ神に命をすいとられるのが最高ですね。ああいうふうに狂ってみたいし、ずっと憧れの死に方だ。声は森繁久彌だし。■『もののけ姫』は封切された小五のときにハマってから「人生の一本」的な映画になったけど、この作品の世界観って、誰もが憎しみあってて、でも悪意だけに終始するわけでもなくって、リアルな日本人だよなと思うけど、映画館に自発的に通ったのはあれが初めてで(下関と北九州で最低でもあわせて四度は映画館で見たはず。あの頃はまだ一回分の料金で座席にいすわって何回でも上映を見ることができた)、それはやっぱりタタリ神の造形が決定的で、山の主としては最長老でもあるはずの乙事主が、ほとんど眼も見えてないのに、わざわざ九州から海こえて戦いにきて、ついに憎悪で狂うっていう、あの赤黒いニョロニョロが白い鼻頭にぴちぴちはねるっていうビジョンに、圧倒的に惹きつけられたんだよね。小五の少年を惹きつけたあれはなんだったんだろう。その影響かどうか知らないが、今にいたるまでいつ憤死してもおかしくないくらいに憎悪のかたまりみたいな人間に育ってしまったけど。■憤死と言えば黒澤明の『乱』を思いだしたけど、終盤で次郎軍と三郎軍が対立するところで、次郎の城に攻め入る綾部軍の計略が明らかになって、次郎軍が一気に退くところで、三郎軍が勝つかたちになるんだけど、そのときに、背後で三郎軍を応援してる藤巻軍が、近くの丘のうえで、エイエイオーってやるんだよね。さきに声援だけ聞こえて、そのあと三郎軍の指揮官が丘に視線をやると、藤巻軍の横列が見える。あの演出がいい。藤巻役の植木等が笑ってるんだよ。非常に緊張感のある戦の対立のなかで、あの視点をぶっ込めるのは黒澤明っぽいなと思った次第。この種のユーモアは黒澤映画の妙味という気がする。■黒澤映画のユーモアはべつの機会にゆずって、憤死だ。一文字秀虎の仲代達矢。原作はシェイクスピアの『リア王』だけど、いいのは、秀虎が自分自身がいかに傲慢だったかってことに気づくのに、単に息子たちに裏切られて、城からしめだされて、孤独になる、って要素だけじゃなく、大殿としてかつて殺した武将たちの息子や娘を配置しているところ。特に末の方と鶴丸だけど、秀虎がこのふたりと会う場面はどこもすごくいい。あれがあるかないかじゃ物語の奥行が全然変わる、と思う。原作だと三女コーディリアの死がかなり印象的だからリアの死も少なくとも末娘の死への憤りが一因になってるみたいに見えるんだけど、というのもコーディリアの亡骸を抱えたリアの登場はけっこう時間とって嘆くし、けど秀虎の死は憤死かどうかはよくわからないと言えばわからない。呼吸困難のゼイゼイで心臓発作みたいな現実的な演技がされていて、もっと様式的にやったほうがなんで死ぬのかわからなくてよかったのにとも思ったけど、それまでの狂気の積み重ねが丁寧だからたいして気にはならないけど、まあ憤死の一種でしょう。『乱』は全く救いがないのもよくて、ことごとく乱れていくだけなんだけど、それもいちおう秀虎の罪業の結果になるよう、やはり親を秀虎に殺された楓の方の謀略(『マクベス』の引用っぽくもある)を置いていて、作品構造としてしっかりまとめている。■憤死してほしい俳優を思いうかべると、三船敏郎とか若山富三郎とか、時代をさかのぼってしまうけど、現代の俳優だとあんまりいないような気もする。筋肉質で暑苦しくて脂っぽい野性味のある俳優のほうが憤死が似合うよね。インテリっぽい感じの憤死は物語としてはありそうだけど、どっちかいうと狂気に転ぶし、黒澤の『生きものの記録』みたいに。でも意外と加瀬亮とかいいんじゃないの。清のほうの黒沢監督のテレビシリーズ『贖罪』のマッチョな感じの変態っぽい兄貴役よかったし。あるいは三浦友和がマジなそういう役やってるのも見てみたいよね。■憤死するほど追いこまれる状況は極限といっていいと思うが、いたるところで憤死が起こっていても気づかないくらい、互いに追いこんでおいて、そのくせ表面的な「信頼関係」を強調しつつ内実の無関心を決めこむのが、いまの日本社会だと思うし、そのことに気づいているひとが多いものだから、憤死する側より憤死させる側のほうがいい御身分に決まっていて、さっさとそっちにまわりたいのが本心で、一度憤死する側にまわるとどうも具合がよろしくなく、逆転勝利は難しいのに、そんな理には沈黙するしかなく、ますます表面的な「信頼」ばかりに偏ってしまうので、そのこと自体が憤死する側を抑圧しているのに気づかないままでいられる構造になっていく。『もののけ姫』のリアリティの継承とまで言わないけど、互いに憎しみあってるってことをちゃんと見ていきたい気持ちがあるね。誰とでも信頼関係を築けるっていう理想はあまりにチャチだし、そこになんの可能性も感じないので、しっかり憎しみあうことを基本にして、そのうえで物事を考えたほうがいいと思うのでした。■負の感情のコントロールが昨今の俳優の強姦致傷容疑の事件で話題になっているけど、信頼とか共感とか、いいほうの感情ばっかり肯定しても、負の感情のコントロールに直結しないと思う。負の感情は負の感情で、あるとき歴然と泉のように放出するので、「信頼関係」をうまく築けるひとだからって、うまく難所を乗りきれるかどうかとはあんまり関係ないと思うんだけど。むしろ過剰な「信頼」に感情が傾いていると、裏切りとか嫉妬とかの反動はすごいから。これは他人に対してだけでなく、自分自身に対しても同じで、自分への全幅の信頼ほどやっかいなものはなく、そんなもの簡単に壊される社会で(正確に言うと、自分への深い信頼があると、それを壊されているのではないかという被害妄想に必然的に追いこまれる)、壊さないでいるヤツがいたらのけ者にされるだけだから、表面的な「信頼」を教えこまれた子どもたちはやがて気が狂うなんじゃないかと思う。そんな安直な処方箋なんて教えないほうがよくて、というか、どういうふうにひとは憎しみあうかを身にしみてわかってないと、信頼とか共感とか言っても意味も効果もないんだけど、信頼とか共感とかを肯定するのは誰にも文句言われないから、とりあえずいいことやってそうに見せるには格好の題材で、いたるところで利用されてるよね。たいがい引っかかるのは未成年だから気の毒。汚い大人はいつも笑顔だし、子どもには明暗を見分けられないんだよね。


[PR]
# by ninpu_ninjya | 2016-08-30 22:00 | 映画 | Trackback | Comments(0)

実存主義かと思ったけれど

■就活にあたってブログをいっさい消したほうがいいのか、匿名にしようか、などと考えてみて、いかにもうるさい感じのこと書いてるのはやっぱり不利だろう、とけっこう無前提に思っていたのが、だいぶん変わって、このくらいの批判的視点を隠していても自分としてはツマラナイので、ツマラナさに耐えられないので、人事担当が名前で検索してブログを見つけだしたとして、なんかコイツやめといたほうがいいな、と思われたとしたら、その程度の会社ってことで、こちらから願い下げ、くらいに考えようと思いなおした。■言いたいこと隠してひとにあわせて形式的なやりとりするのは、実はけっこうすんなりできるので、と言うのも、どういうわけか身体に刷りこまれていて自然にやってしまうものなので(先天的社交性と言うと語義矛盾だろうか)、だからつらいと感じもするのだけど、言語による省察によって儀礼を切断するのは、遅まきながら意識的に言語を求めるようになっておそらく本質的に欲していた緊急事態要項のひとつのはずなので、やっぱりぼくとしては安易に捨てるわけにもいかない。■嫌われてもアイツはそういうやつと思われるほうが楽で、儀式に拘泥するのはつらい。からだがもたないに違いない。■フリーランス時代は色々やったわりには退屈だったような気もして、あいた時間に好きなだけ本を読めたけれども、身になるような生活がなかった。派手に遊ぶ金はないし、図書館で借りた本を読むのがもっとも効率のいい遊びで、それで満足だったが、生きたと言える生活が自分にはないのではないか、と思いはじめるとまったく駄目で、気力が吸い取られるようで、活字の屑山によって構築されかけていた安静はもののみごとに崩れさった、と感じて、ただただうろたえてしまった。ものを考えてきたつもりでいたが、本当に何かものを考えてきたのだろうか。書きものという意味では、誰に読まれるわけでもない小説を書きつづけてきたし、一文の価値にもならない駄文は誰にも負けないくらい書いてきた、と言っていいのではないかと思いかえすが(だってフリーライターだったんだから)、しかし、それらは駄文に違いなく、生きた生活の代償にはなりえないものなのだ。生きていると感じたくなって、そう思いはじめると、もう活字の楼閣にあともどりはできず、そわそわし、動きださずにいられなくなった。■むろんサルトルを安直になぞっているにすぎないが、学生時代に読んだのが骨身にしみているのか、それとも個人の性質として似た気質をサルトルの思想のなかに見つけだしているのか、判然とはしないが、どちらもあると同時に、もうひとつあって、近代社会で生きるということのろくでもない本質に、サルトルは実存を通してたどりつきえた、ということではなかったか。普遍性のある地平に。もちろん彼流に実存を通して要求された本質に。目をふさぎたくなるような本質に。■とりいそぎ図書館で『言葉』を借りて、『嘔吐』を借りて、読みなおしてみているが、思った以上にわからない、理解できない箇所が多いので、困りつつ、しかし大筋でまあこんなことではないでしょうか、と意味を勝手に補足しながら、自己流に読んでみていて、ああ、なんでこんな嫌なこと書くのかなあ、と思いながら、口当たりよく言ってしまえば実存主義と呼ばれることになる思想自体は何度でもふりかえられるべき近代社会の存在論的底辺だという気がするのに、いまあんまり読まれていないのは、彼が言っていることが酷なだけで、それはいち個人の存在論であると同時に、集団の存在論なので、必然的に社会のありさまに思考を発展させるのが、怖いのでもあって、つまり全体主義の問題が裏側にはりついているようなので、消費社会の集団心理として、見て見ぬふりをしたいだけじゃないか、と思った。■サルトルの醜さはぼく自身の醜さだし、近代人の醜さだし、忘れずに受けとめなければいけないもののはず、では。■『言葉』みたいな自伝的小説を書くのが、このひと偉いなあ、と思う。自分自身のなかに脈々と育まれてきたのに、後々半ば否定することになる、と言ってもいいのではないか、太い教養の幹を、じりじりとひもといているのだが、どこか空虚であるのが前提なものだから、記憶の引きだしの時間錯誤とあいまって、なぜこんなことを書いているのだろう、と読者を路頭に迷わせる瞬間があるのは、これもまた実存主義の闇の深さだという気がする。自己否定のつらさが底流にたしかにあって、饒舌に、筆の走るままに書きすすめているようでもあるのに、同時に痛々しく虚しく、転じて、記憶への愛おしさを感じさせるようでもあるが、甘やかさに落ち着けないのが実存主義でもあるらしく、空疎なものは空疎なままで、言語の乾いた表情を、音を、精密にあらわにするだけのようでもある。それでいいのだ、と言えるだけ、ぼくの腹が座っているわけでもない。■本質と実存、経験と覚醒、物語と運命のあいだでゆれうごいてきたのは、どういうわけか言葉に執着することになったぼくとしては当たり前で、それ以前に、現代を生きているかぎりそうなってしまう思考の類型で、生きてみないとわからない、という波がたえずぶりかえすものだから、教養にとどまっていられない。作家はよく読書と想像を足場にどこまでも行けると主張するものだが、それは近代社会で生きるうえでの存在論を無視しているだけで、生きられた現実と読書も、生きられた現実と想像も、細密な糸でむすばれていて、無関係ではない。そこを見誤ってはいけない。と言って、読書や想像を馬鹿にするつもりはまったくないのを、自他ともにゆるさなければいけないのは自明である、とつけくわえなければ、なおいけなかった。■でも言葉というのは実存をいつもきりひらいてくれるようなものとして感じられるので、それについてはべつの角度から考えなければ筋が通らないだろう。本質が言葉としておりてきたときにはじめて実存のありさまを感じとれるという面もある。それも実存の結果なのだ、と考えるほうが自然である、と納得するという意味で、実存主義の命題をいまだに克服していないのは自分でもよくわかった気がするのだけれど、本質だけでなく実存もともに言葉になる、その瞬間は、教養の虚飾が無効になったときにはじめて言葉がやってくるという意味での言葉以上の何らかではないのかと思えて、純粋な実存主義で説明しつくすことも難しいのかもしれない。そういう言葉のありかをさぐりたい。


[PR]
# by ninpu_ninjya | 2016-08-25 03:01 | 雑感 | Trackback | Comments(0)

悪口

■ネットでどこまで悪口を書いていいのか、というのを漠然と思っていて、書きたい悪口はいっぱいあるのだけれど、やりはじめたら自己の悪い意味での崩壊は眼に見えているので、自制して書かないだけで、ほんとうは書きたくて書きたくてうずうずしている、というのも真実で、どうしよう。■悪口の楽しさというのは当然あって、理性を使ってものごとを細密に言語化していけば表も裏も見えるので、言いたいことも山になり、腹に溜めかねるほどで、悪口になっていくのですが、だから悪口を言いたくならないためには、歯止めとしての馬鹿にうまくなりきるしかない。馬鹿になるためには道徳とか宗教とか、あるいは常識的と信じられている人間関係上の儀式とか、が有効であろうけれども、そういうものに拘泥するのが苦手なタイプは馬鹿にも簡単になれないので、どうせ悪口が頭をもたげて、処理に困ることにもなるのである。■これは性欲に似ていて、相手がいればセックスをすればいいけれども、そうでなければさしあたりマスターベーションでもして気を晴らすくらいしかなく、これを悪口で考えれば、セックスは、悪口が悪口を言われる対象へ届くことにたとえられ、いわば悪口の姦通とでもいえるもので、マスターベーションは、いうまでもなく陰口ですね、いいかえれば悪口の手淫である。悪口の姦通と悪口の手淫。そう言いたかっただけだろうといわれそうだが、ああそうだ、何が悪い。■批判は悪口の姦通であり、快楽がありますよ。けれども悪口の手淫じゃあそりゃ快楽は知れている、おとなのおもちゃが使えるわけでもないのでね、と思われるかもしれないが、いやいや、世の中そういうふうにもできていなくて、悪口の手淫におよんで、あの手この手で快楽を増幅するのである。■例えば、あえて堂々と論戦を持ちこむような姦通をさけるため、いかにもよそに聞かれないよう、口のそばに指先を立てた手のひらをかざして壁にし、いくらか声をひそめる。ここだけのはなしなんだけどね、といわんばかりのあのお決まりの陰口特有のそぶりは、悪口の手淫におけるぺぺローションみたいなもので、姦通しないという間接性を潤滑にすることで、手淫の快楽を増幅させているのである。■また例えば、悪口の手淫も高度な次元に達すると、悪口を言われる対象へ向けて、間接的に、それと言わずに伝えるという方法を採用することにもなる。簡単なはなし、Aさんの悪口を本人に伝えたいCさんは、それができないものだから、Aさんと仲のよいBさんにそれとなく伝えて、BさんからAさんへ陰口が伝達するように仕向けるのである。ここで重要なことは、必ずしもBさんからAさんへ陰口が伝達するかわからない点で、Bさんが思いやりの深いひとならばあえてAさんに陰口を伝えないことだって十分にありうる、ということをCさんも重々承知している。つまりこの間接性は、可能性としての直接性を内包することによって(もしかしたらBさんがAさんに言っちゃうかもしれない!)、悪口の手淫をスリリングなものにし、興奮を高める効果を発揮しているのだ。■ことほどさように悪口の姦通も悪口の手淫もどちらも快楽をともなうのであるが、なるほど卑しい、と感じる向きもあるだろう。けれども卑しいというなら、理性をもった人間はひとり残らず卑しいのであり、道徳や宗教とどうも折りあいをつけられないとは必然的に、ひとりひとりが卑しくなっていくことを意味するのである。■合理化のさっぱりした社会的肌ざわりは、道徳や宗教の不合理のじめじめしたそれにくらべて、今やはるかに受けいれられやすくなっている、と感じるが、それはつねに同時に、悪口の快楽へいざなうようにできている。と言うのも、不合理でじめじめした気色の悪い何かは、いくら社会が合理化されても、人間存在にこびりついた油汚れみたいに残るし、ある人が考える合理性とべつの人の合理性は違ったりもするので、そこに亀裂ができて、「不合理」の異質はさらにきわだち、ますます悪口の対象として浮かびあがるからである。■そういう意味では、ネット上のヘイト言説の隆盛も、国の基盤を変えるほどの不合理への懐疑と合理化への衝動(ブラック企業をなくせ!とか天皇にも人権!とか)に連動した現象と考えられるかもしれないが、そんな早合点したまとめはべつにいらないだろう。理性をもつ限り誰しもヘイトフルなのだとして、道徳も宗教も功をなさないとしたら、手のうちようはあるのだろうか。


[PR]
# by ninpu_ninjya | 2016-08-21 22:08 | 雑感 | Trackback | Comments(0)

自己愛の空虚

■自己愛を育てるのは生きるうえでは重要かもしれない。自分を大切にできないと生き続けるのは困難かもしれない、と書くのを反対から言えば、たしかな自己愛をもっていればまわりがどう変わろうと自分を愛し続けられるので生き抜けられるのかもしれない。■しかしそれは自己愛が内なる精神にとどまり続ける限りのことではないだろうか。自己愛が言説化され、行為化され、周囲に影響をもつようになれば、それはただちに保身なのであり、自己保存の発露なのであり、感情解釈において明白にあつかましく感じられる。なぜかと言えば、自己保存の中核はコミュニケーションの断絶を含むからで、世事に長けてすりきれたヤカラたちは、動物的本能に近い感覚で、これ以上コイツとはなしてもラチがあかない、と気づかないわけにいかない。あつかましいという感情はここに由来する。■自己愛を称賛する者たちの過剰な笑顔が何を隠そうと必死になっているのか、をよく考えなければいけない。彼ら彼女らもおそらくは苦しいのである。その荒廃した精神の渇いた隙間に自己愛などといううさんくさい言説が入りこむ暗闇が生まれるのであり、その表面的に肯定できるように思われる、自己愛の光云々かんぬんを信じ続けると、自己保存の精神をとりかえしのつかないほど凝り固まらせて、ほとんど信仰者になるのであり、その限りで多少の影響力をもちえようが、当初の錯誤を免れるわけでは決してない。■彼ら彼女らにとって自己愛は苦しい生を救ってくれる光に思われるのだが、それは他人から見れば精神の欺瞞的閉鎖であり、他者との交通の本質的遮断である。ところが、当人たちはそれに気づいていないかのようで、自己愛から自己保存への頑なな信仰にとりつかれて、むしろそのように苦難を克服したことが、他者に対しても有効であるかのように感じてしまうので、ますますあつかましい存在となり果て、現実的関係をとらえた認識の錯誤は深まるばかりである。■自己保存に美の本質をみた思想家もかつていたし、現在でも理論的有効性がないわけではないだろうが、自己保存という抽象化した概念の裏側に固有の文化的背景を欠いたならば、容易に悪しき普遍主義におちいると同時に、べつの固有の文化的背景の前に立てば、滑稽な阿呆以外になりえない。往々にして自己愛の信仰者はそれに気づいていない。■勘ぐりを深めれば、この種の自己愛の信仰者は、実質をともなわないうさんくさい異国情緒を嗅ぎとる諧謔の感性とでも言うべきものを知らないのではないか。根深いオクシデンタリズムが横たわっている、と言いたくなるし、根深いオクシデンタリズムに無反省に拘泥できる恥知らずな態度を前にするといつでも絶望的に思われるが、自己愛を信仰できるほどの持続的な温室が、この地球のどこにあるのかとほんの少し考えることさえできたら、ただちに、一瞬でもそんな信仰をもった自分を恥じるだけの反省が、自己愛の分厚い表皮をひび割れさせ、外気の荒い息吹の感触を、その内部へ取りこむことができるだろうに。■自己愛の衣服を脱ぎ捨て、自分自身を変化させなければ生き続けられない強風のなかで、それでも何が自分自身であるのかと問うときに出てくるのは、決して自己愛などという安直な処方箋ではないはずではないか。自己と自己愛は同じではない。簡単な概念上の区別さえ、自己愛の信仰者には理解されていないようである。■端的に言って、自己保存を美とすることを支える固有の文化が、この国にあるとは思えない。パッケージ化する「文化」を批判するぼくの立場からすれば、嘆くかと思われるかもしれないが、そうではない。自己など抹消された形式保存へいっぽう的に傾くこの国の文化的パターンのただなかでこそ、「文化」を文化へ差しもどす契機が生まれるのであり、はじめから自己保存の美など成立していたら、カッコつきの「文化」となまの文化の違いなど言うだけ無駄である。それどころか、レトリカルな言説的詐術以外の何ものでもなくなるだろう。■自己保存の美は「文化」へつらなるとぼくが察知しているのは言うまでもないだろうが、じゃあ「文化」でなく、文化を支える美的態度はどういうものなのか、と聞かれそうだ。少なくとも自己愛ではなく、自己の抹消された儀礼的宗教的態度に、その答えのいったんを見つけることができるのではないか。■と書くと、読者は疑問に思うだろう。「文化」こそ無反省で半ば儀礼的な反覆によって成立しているのではなかったのか、と。それは違う。「文化」は、自己愛を隠しもった悪しき保守性を基盤にしているのであり、それは儀礼的と言うにはあまりに陳腐で、固有の文化的背景を欠いた絵空事にすぎない。これに対して文化は、地に足をつけており、儀礼にも宗教にもなりうるだろうが、自己保存の反覆とは関係がなく、むしろ精神の再生産の観点から、自己を破壊し生まれ変わらせる装置でさえある。「文化」は安全無害だが(と言っても欺瞞を蔓延させる社会悪ではある)、文化は危険極まりない(と言っても変化のきざしを感じとらせる救済ではある)。■自己愛をあえて批判しているのに、具体例について書けないのには事情があるのだが、ブログ読者のほとんどは、ぼくが何を批判しているのか察しがつくだろう、と思う。どいつもこいつも血迷っているので冷静になれ、と言いたい。価値なきものを称賛するのはやめなければいけない。ものの見方がとわれている。ほんとうの意味での審美眼が。


[PR]
# by ninpu_ninjya | 2016-08-18 02:52 | 雑感 | Trackback | Comments(0)

郷土のはなし

■ふだんから死に場所なんて考えて生きているのは、よほど逃げ続け、何になのか知らないが追われていると感じて、いよいよ足場を失った人間だろうけれども、反対に、なにくわぬ顔で生活している人こそ、あらためて答えてみるまでもなく、この地域で死ぬもんだ、と疑わずにいるもので、彼ら彼女らにとって郷土は自明なのである。死に場所を探し求める必要に追われる心配のないことが、いかに安らかであるかは言わずものがなであるが、彼ら彼女らと死に場所の定まらない者たちのあいだには、深い溝があると言ってよく、ぼく自身が静岡でぶつかった見えない壁は、これでもあった、と最近考えている。■ぼくには静岡で死ぬつもりが今のところない、と言って、どこで死ぬのか決めているわけでもなく、生まれ故郷から逃げるように出てきたあとは根無し草で、風来坊で、無頼と言えば眉間に皺寄せた頑固みたいにも思われるが、と言うより寄る辺のない身に近く、いくら気張っても吹きさらしの孤独にやすやすと耐えられるわけでもなく、やがて死に場所のノスタルジーを患って、半ば慢性的な中毒症状に陥るのに、なお鈍感でいられるのも、現代消費社会の幻惑の一種かもしれない。幻惑は幻惑で根無しなので、苦しみはそう簡単に消えないが、消費に呼応してあけっぴろげに展開する非人間性の正体を、どこに見つけだそうとも、その前提として、死に場所ノスタルジーの慢性中毒が、ぼくに限らず、たしかにはびこっているのではないか、と思いはじめた。■消費社会に身も心も蕩尽して、それで充足できるとすれば非人間性も捨てたものではないが、消費に次ぐ消費の円環の内側で丸くおさまらずにいる人間性があるのもたしからしく、メディアにはどうもこの微妙なニュアンスはのりにくいのでまるでないかのように(消費社会の内側で完結するかのように)思われているが、そうではないのだ。消費のまえに生産があると言うだろうが、原材料の消費としての物理的生産だけでなく(それならば消費社会の円環のはなしだ)、それは精神の生産でもあるのであり、消費とはなんの関係もない生産である。いちなる生産である。しかし、この精神の生産がどこで行われるのか、ぼくもよくわからずにいた。それがここにきて、死に場所ノスタルジーに行きあたって、郷土の概念に転げ落ちた次第。■地域とよく言われるのは、首都と地方、都市と田舎の特性の格差を無化するために、政策的観点から使用されている印象をもつが、それが物理的な土地以上のものであり、精神の生産地であるからは、郷土愛などと言うときの郷土と表現するほうが正しい場合があるだろう。住みやすい地域などと言うときに、地域と言う限りで、内外の交流を前提に、誰がやってきても住みやすい、という含意をおのずと織りこむとすれば、郷土は、個々人の精神の営みとして、その地域が死に場所であると受けいれることを暗示するので、住みやすい郷土、と言ってしまえば、およそ内外の交流など前提としておらず、死に場所を共有した者たちの連帯へ、想像の位相は容易に運ばれる。と書けば、どこか郷土につきまとう保守性を嫌悪しているように思われるかもしれないが、そうではなく、死に場所のノスタルジーなどと言いはじめてしまったぼくは、心底憧れて、と言うのは、消費社会であがなわれることのない一個の生を死の局面で受けとめてくれる土地を、こころ深く求めているので、それがない、という限りで、精神の生産に失敗せざるをえないのだ。精神の生産は、ひとつには(と書くのはほかにもあるかもしれないから)、郷土との結びつきのなかでなされる、と思う。■国家も郷土を抽象化ないし広域化した概念ととらえれば、精神の生産の場になる、と考える人もいるのだろうが、ぼくの実感ではそれは今のところ明確にない。政策的観点から国家主義の立場を取ることを避けるつもりはないけれども、精神の生産となるとはなしはべつで、国家まで広域化すると、死に場所の概念にそぐわない気がする。なぜって、ぼくは日本のどこかで死ぬのではないかと予想しているけれども、そう予想したところで、死に場所を定めた気がしないから。死に場所を与えてくれない概念を郷土と呼ぶのは難しい。死に場所ノスタルジーは、国家を欲するのではなく、郷土を欲する。■大げさなはなしになっているが、はなしを下世話にすると、意識しているかはともかく、郷土を自明だと感じている人の腹のすわり方は強い。当たり前で、死に場所がわかっているので、そりゃあ強い。■で、こんなことを思った。学生時代に上京して東京で暮らしたが、東京は田舎者の集まり、とよく言うが、それでも東京を郷土と感じている人たちもいるに違いなく、つまり無前提に、いつか東京で死ぬもんだ、と思っている人たちもいるに違いなく、そういう人たちの感覚はどういうものだろう、と言うのは、東京にあふれかえっている文化というのはよそ者の文化で、大半は、東京を郷土と感じていない人たちによってつくりだされているのではないだろうか、と思ったから。いや、よそから東京へ移住した人たちも、長く暮らして、いつか東京で死ぬもんだ、と思うほどには東京を郷土化しているのだ、と言えるし、そういう実態もあるかもしれないが、でもそうでない場合もあるはずで、でないと無責任にあーだこーだ批判するなんて文化を、つくり出せないんじゃないか、と思ったのだった。あーだこーだ批判するというのは、例えば週刊誌が、報道の真実性はともかく、ときの人をやり玉にあげる、といった言説のパフォーマンスをやるけど、ああいうのは、よそ者意識(死に場所の棚上げ)がないとできないのではないか、と思ったのだ。大都市はそういうもんだ、と言われれば、おおそうかと頷いてしまいそうにもなるけれども、しかしじゃあ東京を郷土と感じている人たちの言説はどういうものだろうか、とちょっと考えて、よくわからなくなった。■ぼくは静岡でささやかながらあえて批評誌と名乗った雑誌の編集をしていたので、批評文化に関心があったのだが、大都市とは言えない規模の都市で批評なんてものを流行らせるのは無理筋で、死に場所を定めた人とそうでない人の人口配分が関係していて、言ってしまえば、前者の人、つまり静岡を郷土だと感じてる人にとって批評なんてものは、精神の構造上、価値をもちえないのではないか。だってそこが死に場所なんだから、いい地域だろうがそうじゃなかろうが、おもしろい地域だろうがそうじゃなかろうが、どうでもいいはずで、そんな表面的なはなしと、死に場所であるという内密な充足的感覚は関係ないはずで、そこにさしはさまれるあーだこーだ言語化された空間はわずらわしいだけで、価値があるとすれば、批評も消費の一環、程度のなりさがりを免れないだろう。精神の生産と文化が不可分であるとすれば、消費の一環ならばべつに文化でもないので(言いきるのはなかなか勇気がいりますが)、批評が消費の一環になりさがるなら、ぼくとしては批評に用もなくなる。■と考えるのが、たぶんぼくの抱えた矛盾で、おそらく経済認識として正しいのは、批評はよそ者の所業で、だからさっきの人口配分で言えばよそ者の多い(あるいはよそからのぞく構造をつくりやすい)大都市のほうが流行りやすい。それなのに死に場所ノスタルジーを患っているぼくは、郷土を欲しているので、精神の生産と文化を結びつけて、そこに批評を連ねようとするので、経済認識としては誤りで、最初から批評なんて成立しようがなかったのではないか。■じゃあ郷土と精神の生産と文化と批評を同列に並べるときに、経済認識として無理だとしても、べつの論理で説明できるかもしれないので、ぼくはそっちを信じていたことになる。それはだから文化としか言いようがないけど、それが文化なんですけど、と思うだけだけど、でも金にはならんということで、経済では無理だということで、それだけはよくわかったけど、すっきりしないのは、ぼくがまだ文化と経済を切りはなして思考しているからで、切りはなすのが、精神の生産にとって必要条件かどうか。まあでもおよそ金にはなるまいな、と思われるようなものとして文化が想定されているので、そうでない文化を思い浮かべる人とは文化観がそもそも違うんだろう。■むしろ文化を経済と切りはなすのを積極的に考えたい。だからぼく自身、アマチュア化していかざるをえないのかもしれないけど、つまり在野のもの書きとして生きていくほかないのかもしれないけど、はなしは戻って、それにしても死に場所が欲しいです、ということで、暑苦しいアパートの一室のしみだらけの布団のうえで全身に汗をにじませて、考えてはみたがここで餓死という選択はない、と思ったところで、死に場所ノスタルジーがこみあげてきた、という、郷土のはなしでした。■富士の樹海を死に場所に選ぶ人たちのはなしはまた今度。あそこに集う人たちは、死者たちの郷土を求めたんだろうね。そんなことが現実にできるってことを想像するだけでも、少し感激するが、死者たちの(と言うか自殺者たちの)郷土だってそれ自体ある特性をもっているので、ただちに精神の生産がはじまってしまうので、死に場所が定まると必然的にそうなるのだろう、と思うばかりで、死に場所がないなら精神の生産も失敗し続けるのではないか、というのが重要でした、郷土の不在のはなしでした。


[PR]
# by ninpu_ninjya | 2016-08-13 16:26 | 雑感 | Trackback | Comments(0)