「ほっ」と。キャンペーン

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by ninpu_ninjya

■原作と違ってるというはなしを聞いたので、むしろそれを楽しみに見に行ったのだけど、スコセッシ『沈黙』。もちろん構成やらは映画なんで根本的に違って当たり前なんだけど、原作の読解でいえば、両者のあいだに大きなへだたりがあるように思えず、かえって面食らった。原作に書いてあることはまさに映画で撮られていたことだとぼくはわりとすんなり腑に落ちたけどね。■でもさ、原作もあんまりいい出来じゃないから。というのはぼくの印象だと、あのくらいの小説なら非キリスト教徒でも書けると思うんよね。むろん遠藤周作らしい問題意識は全面展開されてるので固有の作家性があるという意味で「代表作」といわれてふさわしいんだろうし、人口に敷衍するのに必要だった構造の簡潔を低く見積もるわけにもいかないけど、小説の内容として中心部に位置する中間の三人称一元視点のところがねえ、書簡とか日記とかで構成するならもっと攻めてほしかったって思うんよ。まさか「神の視点」ってわけでもないでしょうに、どうにもなんでそこだけ三人称なのよおって思うじゃないですか。いやなんか理由づけがあるのかもしらんけど、効果的だとはあまり感じなかったな。といって三浦綾子『道ありき』みたいなさ、どうにも神を求めなければやれない心理が描きこまれているわけでもないのよね。小説のかたちをとったユダ論といえばそれまでだけど、『沈黙』は読者自身をユダのところまで落としてくれる小説ではない。同じ日本のキリスト教文学なら本棚に置いておきたいのは断然『道ありき』ではないかと、って比べなくてもいいんだけど、じぶんが好きなばかりに。■しかし映画化ということを考えると、明解な構造でできている小説のほうが向いているのかもしれず、現にスコセッシみたいな当代一流の(ってことでいいんでしょうかシネフィル先生!)創作者に届いているわけだから、「ひろまる」ということがどういうことか考えさせられはする。日本文化論みたいな趣向って小説にもあっていいし、じぶんもそういうことやったことあるけど、なんか外交意識の結果みたいで、冷静になると馬鹿らしくもある、と思う一方、遠藤先生は戦中派だし、カソリックだし、内的動機は当然あったんだろうけど、遠藤自身がどこまで信仰を求めるような書き手だったのかはぼくにはよくわかんないな。あくまで知識人の手つきで問題を考えているという印象はぬぐえない。もちろんそれも大事なことではある。■映画『沈黙』で書いておいてもいいのはイッセー尾形のことかな。その前に窪塚洋介のキチジローはもうひといきなんかほしかった。原作でユダに重ねあわされる人物として登場するキチジローは、なんどでも踏み絵を踏み、そのたびにロドリゴに告悔したくてあとをつけてくる、死を賭けてでも信仰を守るような強い態度にはどうしても出られない、弱い者の代表。主人公の宣教師ロドリゴとの関係でいえばもっとも重要といっていい人物なんだけど、もっと演技の造形に凝ってほしかった。キチジローの配役が誰かで見に行くかどうか決めようとぼくは思ったくらいで、窪塚は未知数だったんで行ってもいいかな、となったけど、期待に見あう演技じゃなかったな。酷いというのではないけど、窪塚のキチジローは、弱さというより空っぽなのよね。あんな男はいまでも現にいるだろうけどさ、演技の手法なんていくらも出そろってる21世紀ですぜ。信仰と弱さのこんがらがった複雑な心境を立体的に造形することはできるでしょうよ。積極的に演技を造形してほしいんだけど、演出をつけるひとも甘くないかなと。■でイッセー尾形。誰かがすでに書いてるかもしれんけど、あの過剰に技巧的な息を抜く場面ね。やりすぎ、とは思ったけど、記憶には残った。映画では省かれてたけど、イッセー尾形が演じた井上筑後守は原作では若いころに宣教師に「道を乞うたことがあった」ってわけで、キリスト教を邪教と考えてなくて、為政者としての冷徹な判断でキリスト教弾圧を必要と考えている人物なんよね。ロドリゴとの対面でキリスト教のことなんかなんにもわかってないっていわれて、あのプシューって音がしそうなほど長い、息を抜きながら背筋を曲げて上半身をちぢめる、筑後守を正面から撮ったワンカット。表面的にはロドリゴに対してこいつなんにもわかってねえなっていう拍子抜けの表現なんだけど、リアリズムを超えて過剰にフィジカルになるがゆえにメタフィジカルな領域をひらいてしまうことがあって、「私」の領域を隠して「公」の領域の形式のみが重視される日本社会の、いわば風船的な芯のなさを身体的に表現していた、とも見えるトリッキーな演技になってた。ああいうのを基本的にリアリズム系の演技で統一されている、とされている種類の映画にブッコんでくるのはおもしろいよねえ。■イッセー尾形は映像でも演技を見る楽しみを与えてくれるので嬉しいんだけど(スコセッシも参照しただろうソクーロフ『太陽』の影響も感じたよね、「大日」で太陽ドン!みたいなのは笑った、という事例より、霧で視界がさえぎられるとか虫の音の音響設計とかをソク―ロフっぽいといったほうがいいのかしら)、もっとも井上筑後守の人物造形があれでよかったのかどうかは疑問が残る。かつて宣教師に「道を乞うた」という経験の深さをどのくらいに見積もるかで、井上の人物造形は変わってくるわけで、イッセー尾形版だと、技巧的でフィジカルな演技につきまとう喜劇の味わいがあるから、がんばって想像力をたくましくしても、例えば棄教したあとのフェレイラやロドリゴと同じように、外面的には法治を乱さないふるまいをしていても、こころの内で信仰を棄てきれない信仰者と同等の位置に立っているようには、間違っても見えないだろう。いやそれはそれでそういう演技の設計なんだと思うけど、思うに井上筑後守って元キリシタンとしてフェレイラやロドリゴ、あるいはキチジローにも通じる心境をもっている可能性の余地のある人物だよね。彼がなぜいっけん悪魔とはほど遠い柔和さでありながら断固キリスト教を弾圧する人物として描かれているかといえば、日本の為政者はそういうもんだ、みたいな日本人論の反映を抜きにできないけれど、それにしても若いころキリスト教に接近した傷は彼自身にあるはずだし、でなければこの国は沼地で外来の思想なんて根づかないという認識自体もてないだろうし、その古傷が映画でもなんらか感じられると、イッセー尾形らしい「滑稽」が「深さ」にもなったと思うんだけど、ぼくにはくみとれなかった。あの風船的身体にそこまで見させられるかといったら、それはないかなと。それとも知りようがないが、老境から若いころを思いだすって感覚的にあんな感じなのかな、腹から力が抜けるような。■あとリーアム・ニーソン(フェレイラ)が出てくるといきなり画面が成熟する現象、おもしろかったな。アンドリュー・ガーフィールド(ロドリゴ)もアダム・ドライヴァー(ガルぺ)も若々しいよね。実年齢はぼくより年上みたいだけど。


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# by ninpu_ninjya | 2017-02-19 01:48 | 映画 | Comments(0)
■引っ越しのため冷蔵庫と洗濯機を処分するのですが、処分するのにも費用がかかるため、ほしいひとがいれば無料で譲渡したいと思います。
■すでに13年ほど使用しており、経年相応の使用感はありますが、作動状態はいまのところ正常です。ひきとり後の故障に責任を負えませんのでご了承ください。
■ぼくは静岡市駿河区在住です。車でひきとりにきてくれる方限定でお願いします。
■ひきとり日は2017年2月27日までのあいだで相談したいです。
■冷蔵庫はSANYOの品番SR-T11Gです。2ドアで冷蔵室(81L)と冷凍室(28L)があります。幅476mm×奥ゆき513mm×高さ1099mm。
■洗濯機はSANYOの品番ASW-T42Bです。全自動電気洗濯機うず巻き式。標準水量40L。標準洗濯容量4.2kg(乾燥布質量)。幅565mm×奥ゆき534mm×高さ905mm。
■冷蔵庫と洗濯機のどちらかひとつの譲渡も可能です。
■ご希望の方は、rsg38377☆nifty.com(☆→@)までメールをください。宛名は西川泰功です。

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# by ninpu_ninjya | 2017-02-13 01:35 | 告知 | Comments(0)

引っ越しの準備

■引っ越しの準備でそわそわし、どこか落ち着かない毎日。2月末に実家へ帰る。直接のあいさつは親しくしていたごく一部のひとたちに限らせてもらうことにした。仕事でお世話になったひとはたくさんいるけど、社交辞令でひとに会うのは面倒だし、ましてや送別会なんて誘われるとイヤなので、悪しからず。どうしても話したいひとがいれば連絡もらえればうかがうけど、ぼくはいまけっこうデモーニッシュになっている気がするので、やめといたほうがいいと思います。ネットでの発言ももういいよね。うんざりだよ。■ブログは時機をみていっさいを消去しますので、ご了承ください。さようなら。


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# by ninpu_ninjya | 2017-02-03 01:54 | 雑感 | Comments(0)

三番目の待機物語

■待ってると期待するものがきた、というのが素朴で原初的な物語型だとすると、待ってても何もこないというのが変化球で『ゴド―を待ちながら』などその代名詞的作品があるとしたら、待った結果待ちに待ったものがくるんだけどじぶんはそれに関われない、という発展形があって、このタイプの物語に、ぼくは長らくよくわからないと感じてきたけど、さいきん妙にしんみりと、なかなか味わい深いな、と思うようになってきたのは、歳のせいなのか、ヤバいな。ぼくの人生も、結局のところ、何もこないならまだしも、たしかにくるんだけどそれに関われない類なんだなと、ようやくわかってきたということかもしれない。■最初に三番目の待機物語に出会ったのは、ロナルド・ハーウッドの戯曲『ドレッサー』じゃないかと思う。あの戯曲、というか見たのは上演された演劇だったけど、最初に見たときは、率直にいって、(結末について)何がおもしろいのかさっぱりわからなかった。世の中的には「名作」扱いだし、それだけに、のどに刺さった魚の小骨のように(なんて使い古された修飾を使ってしまうね)ずっと引っかかっていたと思うのは、強烈な疑問や違和感って、ことあるごとに思いだすからだよね。シェイクスピア俳優とその付き人の物語で、ハーウッドの脚本で映画にもなってるから、わりあい知っているひとも多いんじゃないかと思うが、ぼくは映画のほうを見ていない。ぼくが見たのは2005年パルコ劇場で平幹二朗と西村雅彦が出演してたやつ。ネットの情報をあさると、演出は鈴木勝秀、翻訳は松岡和子だったようだ。さかのぼれば、どちらも松竹の制作、ロナルド・エアー演出で、1988年三國連太郎と加藤健一、1989年三國連太郎と柄本明で上演されてるし、2013年にはシス・カンパニー制作、三谷幸喜演出、橋爪功と大泉洋で上演されてる(のは知らなかった)。バックステージ物だし長らく演劇をやっているひとからすると「読める」ので、業界内評価が高く、ことあるごとに演劇人の記憶にのぼってきて、上演が繰りかえされている、ということなのだろう。■付き人ノーマンが死にかけの座長を励まして「リア王」上演の舞台裏をささえるんだけど、最後に手紙のくだりがあるでしょ、あそこね、あの外し方。ノーマンの心境をいかようにも感情付与することはできると思うんだけど、鈴木勝秀の演出ではそれまでのドタバタ具合の自然な結果として、観客の共感できる感情に落としこまずに、突き放した心境、あえてカテゴライズすれば驚きだけがあるような空虚と混乱として提示していたと記憶してる。それだけに後味悪かったわけだけど、演出しがいのあるオチではあるよね。いまとなってはノーマン役の西村雅彦の精神病的な剥奪としての驚きものみこめる気がする。客の受けを狙うなら、感傷の混じった切なさに落としこめばはなしは早いだろう。けど、そうしていないのが、おそらくあの演出の妙だったんだろう、とも思う。だって座長が平幹二朗だからさ。狂っていくのも新劇的なリアリズムというより、リアリズムと商業演劇的な朗誦のせめぎあいのなかで感情的に展開するわけで、文字通り向こう見ずな暴走になるので、ノーマンの妄想のなかだけでもリアリズム的に座長と心を通わせる、なんて選択肢はなかったと思うんだよ。切なさなんて出てきようがない。■と思いだしつつ、書きたかったのはディーノ・ブッツァーティの小説『タタール人の砂漠』のことなのだった。2013年に脇功訳が岩波文庫に入ってる(1992年松籟社より刊行された訳本の改稿)。ブッツァーティはカルヴィーノやランドルフィにならぶイタリア幻想文学の雄ということになってるのかな、『タタール人の砂漠』はもとは1940年に書かれた小説だけど、文庫の「訳者解説」によると、刊行の翌日にイタリアが第二次大戦に参加し、戦後1950年代から60年代にかけてネオ・リアリズムの流行がひと段落するまで、再評価の機運はおとずれなかったらしい。同じくブッツァーティの短編集『世紀の地獄めぐり』(香川真澄訳、創林舎、2016年)の訳者あとがきによると、寓意作家ではあるけれど、晩年に進むにしたがって実人生の影が小説をむしばみはじめ、やがて虚構を食い破るまでにいたるとのことだ。『タタール人の砂漠』は初期の作品だけあって、ここでいうところの三番目の待機物語の典型といっていいほど、きれいに物語が構築されている。これが寓話かどうかというのは判断できないけど、寓意はある、アレゴリーというカテゴリーで語られる小説である、とはいえる。物語は、軍人ジョヴァンニ・ドローゴの一生。人生の愉しみからは隔絶された、目前の広大な「タタール人の砂漠」を眺めるばかりの、敵のやってこないへんぴな砦に配属されたドローゴが、軍人として、戦を、勇敢な死の機会を待ちつづける、という趣向。さすがにここまで簡潔に、かつ丁寧に物語を構築されると、苦手な三番目の待機物語といえども、その味わいをしっかり受けとめざるをえなかった。■19世紀がリアリズムの時代だとすれば20世紀はアレゴリーの時代で、探しだすとカフカをはじめ大文字の寓意作家たちの作のなかに三番目の待機物語はほかにもあるのではないかと思う。21世紀はさらにさきに行かなければいけないんだけど、これが難しいね。想像と現実の関係のなかで文体は変化すると思うんだけど、リアリズムは物語の論理が現実を縫いあげるのに対して、アレゴリーは想像を縫いあげるのだけど、三番目の待機物語は物語からこぼれてしまう存在に照明を当てることでアレゴリーを成立させているので、このさきというのは物語の届かない暗闇ということになってしまって、アレゴリーは機能しないばかりかリアリズムも全体を構築できない荒地かもしれない。吃音的にぶつぎれの断片を配置するほかに何かしようとすれば、回帰的にならざるをえず、じぶんとしても楽しめるものとして創作するなら、リアリズムでもアレゴリーでも言葉が現実にあたるところを設計しさえすれば、気分としては居直ってもいいんだけど、書いてるうちに新しいところにでる、というふうには行為に期待しておかないと、書きつづけられない。行為よりさきに思考できればいいんだけど、ぼくにはどうもできないし。■三番目の待機物語がとりあえずいまのところ共同性をつくれる「最後の寓話」なんじゃないかとふと思って、メモメモ。■幻想文学というとあまりに漠然としているけど、単に現実ではありえない道具立てで世界を構築するという、それだけならば、ファンタジーと呼ばれる作品群に属し、想像と現実との相関関係を問わなくてもよくなるわけだけど、そうではなく、虚構を通して想像と現実との関係を問いなおしてしまうのが文学(小説といったほうがいいのかな)ならば、その範囲での幻想文学は、認知限界の外側を意図的に幻想にわりふるものと、寓意の仕掛けとして幻想を利用するものとあるよね。どちらも有効に使えば使えるけれど、ぼくとしてはさいきん、前者は禁じ手にしよう、と思っている。気質的にやっちゃうんだけど、無自覚すぎた、それはない、と反省した。後者はまだ使える気がするけど、三番目の待機物語のさきとして考えたいんよね。


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# by ninpu_ninjya | 2017-01-22 00:21 | 仕事 | Comments(0)

■デヴィッド・リンチとマーク・フロストの『ツイン・ピークス』続編が今年20175月から放映されるようですね。ネット配信時代だし、もはや「テレビドラマ」というのは適切でないから、単に「映像作品」とでもいえばいいんだろうか、日本で見られるのはいつになるかわからないけど、楽しみだなあ。■1990年から1991年にかけて放映されたテレビシリーズの最終話、深紅のカーテンに包まれた異空間ブラックロッジの内部で、物語の発端になった被害者ローラ・パーマーがクーパーFBI捜査官に「25年後にまた会いましょう」っていって、2016年でちょうどそれだけの時間が経過したんだよね。前々から続編の噂はあったはずだけど、今度のは本当らしいので、時機を得たということで。オリジナルキャストが再集合するようで、むろんみんな歳をとってて、ネットに転がってる告知動画を見るだけでも感慨深いわ。■もちろんぼくはリアルタイムでは見てなくて、21世紀に入ってからの後追い組ですけどね。錯綜した諸要素を、夢判断や超現実によって裏づけていく、オカルト趣味の物語は、いっけん陳腐に感じられかねないんだけど、いま見返してもなかなか鮮烈なのよね。とくにローラー・パーマー事件がひと段落するまで(wikiによるとセカンドシーズンの第9話まで)の謎解きは、観念としての殺人者ボブを平行世界的に実在化させて、「見させる」演出になってたよね。セカンドシーズンの第10話以降は、まだ続くのか、と見る者を置いていくかに思わせながらも、次第に、『ツイン・ピークス』が「初めから」クーパー捜査官の物語「だったのだ」と焦点をあわせなおし、ローラ・パーマー事件はクーパーの物語の内部で「起こった」にすぎない、と物語内時間の遠近感を狂わせていく。テレビシリーズを最後まで見ても、謎は残されたままで、ファンであればあるほどさぞかしモヤモヤしただろうと思うけど、ガチで25年経って、やっと続編が見られるってわけだ。リンチ自身の手で続編がつくられるというのもいいよね。■個人的に気になってるのは、物語の核心部分がオカルトなんで、1990年と現在では同じようにつくるわけにはいかないんじゃないかと思うわけね。ホワイトロッジとブラックロッジの関係は、いってしまえば善悪の表象で、ブラックロッジに迷いこんだ人間は悪に目覚めてしまうわけだけど、こういう単純な図式をそのままオカルト風に物語世界に組みこむということが、果たして2017年にできるかどうか。哲学者メイヤスーが『有限性の後で』で書いてるように、相関主義が深まったゆえに神秘主義が擁護されるってことまで明確に指摘されてしまった21世紀初頭だからね、おいそれとオカルト趣味でなにか深いことをいったように乗りきるのは、もはや必然性への居直り以外のものではありえなくなってしまった。「クーパー捜査官のその後」を描くときに、前作の核心たるオカルト要素を抜きにはできないんだけど、オカルト要素を用いながらも、2017年の一般の視聴者の感性のうえで腑に落ちるポイントをどうつくるか。おそらくそれはホワイトロッジとブラックロッジの関係を複雑化するか、ブラックロッジの位相を深めてそれ自体別様に見せるか、あるいはオカルト要素を無化するような新しい契機を物語内に組みこんで、発端のローラ・パーマー事件をクーパーの物語内に位置づけなおしたように、さらに大きい物語の内部に包摂してしまう、といった選択肢になるんじゃないかな。まあ予想してもたいがい外れるけど、宇宙研究が進むと、「太陽の分断がはじまる!」とか、マジで対処のしようがないように感じる、人間存在を根底からゆるがす「地殻変動」がまじめに主張されるから、そのあたりとオカルト要素を結合させて、今日風に物語を仮構しなおすのもひとつの手だね。でも裏をかくのもリンチだから、そのへんをどうするのか、期待を裏切ってくれるのを楽しみにしてる。■ともあれリンチが「今の作家」かどうかイヤでも試されるよ。チャレンジャーだわ。■しかし『ツイン・ピークス』の後世への影響ははかり知れないとあらためて思った。前に記事を書いたコーエン兄弟の『ファーゴ』だって、『ツイン・ピークス』がなけりゃつくられなかったかもしれないし、日本でも松尾スズキやその弟子としての宮藤官九郎が小さな共同体のコミュニケーションに独特の悲喜劇を発見する劇作を成立させられたかわからないよね。松尾スズキにはアメリカ映画の影響あるよな、と勝手に思ってるんだけど、大人計画の旗揚げが1988年だから、少なくとも『ツイン・ピークス』のヒットが「方向性間違ってない」って確認する程度の道標にはなったかもしれないよね。トラック運転手のレオが襲撃されて身体障害で車いす生活になって、意思疎通ができなくなるんだけど、その妻シェリーと不倫関係にあったボビーが保険金目当てで共同生活をはじめるコメディタッチのくだりを見ながら、『ファンキー!』(1996)を連想したりしちゃうんだもん。奇形の表象でいえば、『ふくすけ』(1998)をひきあいにリンチ『エレファント・マン』(1980)やヘンネロッター『バスケット・ケース』(1982)を持ちだすほうがいいのかもしれないけど、野暮だわな。それ以前に、あの気弱な保安官補アンディ、その恋敵ディック、アラフォーなのに狂って女子高に入りなおすネイディーン、いつも丸太を抱えた謎のおばさん、アンディとディックのあいだで揺れていたオフィスレディなのに終盤のミスコンでいきなり華麗に踊りだすルーシー、など脇役たちの癖のあるキャラクターをどこか「大人計画っぽい」と感じてしまうのはぼくだけかな。劇団員の多くがメジャーになってるのを知ってると、90年代以降の日本演劇の最大級の重要人物としての松尾スズキについていまではなかなか語られないのが気になってくるね。『ファンキー!』も『ふくすけ』もニコ動で記録映像を見れちゃうけど、ぼくより若いひとはスルーしてる可能性もおおいにあるので、とりあえず「教養」として見ておくべきだとでもいいたくなる。■『ツイン・ピークス』から横道にそれたけど、ひとつの金字塔ということで、ここからその後の愛すべきひとつの路線がはじまった、と考えるのは誇張しすぎだろうか。リアルタイムで追ってたひとのはなしを聴きたいね。どんなふうに見てたのか。


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# by ninpu_ninjya | 2017-01-16 08:51 | 映画 | Comments(0)